月二回のライアーのレッスン日まで後三日。「展覧会の絵」行きつ戻りつ、戻りつばかりでうまく弾けない。はぁ、とため息をつく。
そこへ娘からスキーに来てるよ、と写真が送られてきた。
先月の終わりにニセコに来てるよ、と写真が届いたばかりなのに。どうも毎年行ってるようです。
羊蹄山は富士山みたいです。美しいね。でも雪ちょっと少なめだった?
そして、昨日から今度は苗場スキー場へ行ってるようです。
昨日からの雪でニセコ以上の雪らしい?。
楽しんでいますね。母はライアーで苦しんでいます。(笑)
弦弾くも響かぬ外は春の雪 (花)
花は野にあるように、との利休の言葉を思い出しつつも、茶花を活けるの難しさを感じています。
生花の流派はいろいろありますが、茶花は自由に活けて良い、と聞いている。以前にある方からいただいた茶花十二か月の本があったはずと、書棚の奥から引っ張り出してきた。
「野の花を活ける 茶花十二か月」田中昭光著
この本をお手本にしてお茶を楽しみたいと思います。
器も道具もないない尽くし。着たきり雀ではないけれど、掛けきりお軸に、飾りきり水指。それでもよいと思いつつ。
続けることが大事です。
菜の花を備前の徳利に活けてみました。
この本の紹介をあるところにしたところ、英語でコメントが入った。ヨーロッパのどこかの国から来られている方かな?素晴らしい本です。この本のおかげで私は床の間と花を通して四季への理解が深まる、と書いていた。日本では茶道は廃れていきつつあるのに、外国人が日本文化に惹かれ学んでいる?
徳利に野にあるやうに菜の花を(花)
お茶はやはり継続していくことが大切です。
長い空白の後に、押し入れの中で眠っていた道具を取り出した。
ところどころ忘れつつも、何となく流れに乗って手が動いていくことに安堵。
でもまた休み始めると一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎていく。
これではいけないと思い、再度継続は力と思い直した。
我が家の和室には炉を切っていない。普通は風炉は五月から十月まで、炉の季節は十一月から四月までつかう。
しかし、元々の茶道は風炉から始まったと言われ、一年中使われていた。
ではではその初めに戻ってみようと言うことで風炉を一年中使うことにした。
茶道具の美意識は「冷え、枯る」別名「侘び、寂び」決して豪華華美ではない。
「侘び数寄でならした茶人がある日、利休に大金を送ってきて「とにかく自分のためにいい茶道具を選んでください」と目利きを頼みます。
ほどなく利休から届いた荷物を開くと、新しい真っ白な晒の布が大量に入っている。
慌てて添えられた手紙を読むと「なにはなくとも真新しい白い茶巾。これさえあればお茶はできます」と書いてあったと言う
利休の言葉に習って家にあった晒しと思ったが、晒しは麻なのでちがった木綿の布で作った茶巾をつかっている。ちょっとぼてっとして変だけれど。
茶巾、これ失敗作ですのでじーっとみないでくださいね。
持っている道具も少なく、名もないものばかりだが、とにかくお茶を一週間に一度は点てていこうと思った。
お菓子はいただいたクッキーセットの中のお菓子と、
落雁 花うさぎ
秋の演奏会用の楽譜を渡された。
ロシアの作曲家モデスト・ムソルスキーの曲で、画家であるヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン?)の死を悲しみ、絵の展覧会を訪れた際の散歩(プロムナード)の様子を曲にしている。曲ごとに拍子が違うのは歩きながら絵を見ているという、歩調を表しているのだという。素敵な曲だけれど、ややこしい。笑
さらにもう一曲は、嵐の歌っている「ふるさと」。これも素敵な曲でうれしいけれど・・・。ただ暗譜できない。後もう一曲追加があるらしいけれど、どうなるのだろう。
グループのLINEで早速音源がアップされた。練習しなきゃ・・・。新しい楽譜を渡されるとしばらく難行苦行状態になる。
そして私の習性なのか何だか知らないが、こういう状態になると逆方向に動きたくなる。お茶手前など・・・。こんなことしている場合じゃないけれど。
あっ、二月二十八日は利休忌でした。こんな場合じゃなくて、この日のためにです。
弥生朔日譜読み疲れに茶を点てて(花)
今日はライアーのレッスン日で梅田まで出かけた。
マスクを忘れたので終わった後のカフェタイムは欠席した。
最近身近にコロナやインフルエンザに感染している方が増えてきているので少し気をつけることにした。
今、絵本が面白い。と言っても今日の絵本は大人向けの絵本だが。
米倉斉加年と聞けば俳優と思うかもしれないが、画家でも有名な方だ。画家というよりも絵師と表現した方がしっくりくるかもしれない。
特に絵本が好きで何冊か持っている。
米倉斉加年の最初の絵本は「マッチ売りの少女」。
文は野坂昭如。
アンデルセンのマッチ売りの少女とは全く違い、最底辺の街娼として生きる少女の物語だが、最後に残ったマッチを擦った炎が、自分の着物に燃え移り、悲しい最期を迎える。
野坂昭如の文は、少女を救いのないままに燃え尽きて闇に消していく。
野坂昭如が地獄を見たという戦争体験が下地にあるのだろうか。
生きることが地獄なら、地獄を抜け出すのが死ぬこと。
最近、戦争が身近に見聞きすることが増えてきている今、戦争の地獄とは何も戦場にだけにあるのではなかったことを描き、書き残している。
野坂昭如は米倉斉加年の描いた絵を、私の書く文を超えたと評している。
マッチ売りの少女はエゴン・シーレの絵にどこか似ているような気がする。
マッチ擦る炎に絵師の技ありて (花)